無 題

   昨今、人生論や人生哲学的な著作が数多く見られる。そして何時の時代でも変わることのない教訓が与えられている。
 イギリスの文豪、W.シェイクスピア作品の悲劇『マクベス』では、マクベスが、欲望から破局に至るまで、その人生を舞台で演じる役者にたとえる。

  明日が来たり、明日が去り、また来たり、
 又去って、「時」は忍び足に
 小刻みに、記録に残る最後の
 一分まで経過してしまふ。
 ・・・・・・ 
  消えろ、消えろ、消えろ  束の間の職火!
  人生は歩いている影に過ぎん、
  只一時、舞台の上で、ぎっくりばったりやって、
 やがて最早、もう噂されなくなる
  惨めな俳優だ。                (坪内逍遙訳)

 

  また喜劇『お気に召すまま』では、孤独で人生を斜めに見るジェイキーズは人生を七幕の舞台たとえて言う。
  この世はすべて舞台、 
 男も女も役者にすぎない
 人はその一生の間に多くの役割をこなす、
 それは七幕になっている。一幕は赤ん坊、
 ・・・・・・

 一生の歴史が終わる最終幕では、
 第二の幼児に戻り、忘却の世界に入る、
 歯はなく、目はかすみ、味覚も分からず、何もかも  無くなる。

 

と、序幕で祝福を受ける乳児から、最終幕までの人の世を、喜びと悲哀を持って見つめている。ちょうど七幕目に入っている私は、八年前に追突された交通事故によって、頚椎、腰椎の治療を暫く受けた。 が、それ以後、脊柱管狭窄症による硬膜外や神経根ブロック注射、腰椎椎弓切除や椎間孔狭窄徐圧手術等で入退院をくり返すことになった。
 この聖句、「あすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:34)は、嘗て恣意的、虚無的に解釈されたことがあった。しかし、数年に亘る激しい痛み、痺れ、歩行不自由さを経験すると、もう一日だけで十分だと考えたくなることもある。そして、「消えろ、消えろ、短いローソク」の演劇世界が現実化しないように考えた。
 ところが「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。」(ローマ5:3~5)の聖句を読み、またこの言葉「『忍耐』(ヒュポモネー)は、『苦難』『信仰』『希望』『喜び』と結合して用いる」(『新約聖書のギリシャ語』バークレー著 滝沢陽一訳)ことを知り、強く癒される感じをうけた。
 この数年家族に計り知れないほどの心労をかけたまま、現在わたしは七幕目、最終幕の舞台に立っているものの、「影」の人生を歩く哀れな役者ではなく、また何もかも無ではなく、聖句のように希望と喜びに導かれて過ごす人生にしたいとねがっている。  (S.T.)
                                                  (ある日の週報から)