深川教会の源流に注いだ川

 深川教会機関誌「つながり」150号を記念して、その開拓伝道に17年関わらせていただいた牧師として筆をとった。戦後15年頃まで深川教会の周辺は、東京大空襲の3月15日、敗戦の8月15日には橋袂や堀割の岸に、線香や花束の並ぶ戦争の傷跡深い町だった。上野浅草等の公園で野宿している人々を収容する更生施設が隣町の塩崎町近辺には七ヶ所もあり、在日韓国朝鮮人の集団生活域もあった。そこが都の塵芥埋立地で、反対を叫ぶ地元民がいなかったからだ。
 戦後、東京の学生生活の中で家族の反対をおしきり受洗、献身した私は、当時昼は教師として働き夜は日本聖書神学校で学んでいた。
 1952年冬、女子聖学院中高部教師として担任クラスの献金をもってS荘を尋ねた私は、入居者の悲惨な戦争体験に圧倒された。
 そこで既に聖書神学校の先輩が始めていたS荘聖研に、時々お手伝いする事になった。
 3年程で終ったこの群から、1955年熊澤義宣先生が開設された深川伝道所に何人かが通い始めた由。牧師がドイツに留学されるのでと、当時東神大の大学院で学んでいた私を招聘するために来た伝道所役員の中に、S荘聖研の仲間 MSさん、TSさんを発見して驚いた。「先生自身の事を考えたら来ない方がよい。俺達の事を思ったら来てほしい」との招きの言葉に胸をつかれた。主の召に迫られる思いで58年1月招聘を受諾、その年夏、熊澤先生をドイツにお送りした。
 その後伝道所に、幾つかの厚生寮から数人の人が来たがS荘聖研の人だけが残った。
 MSさんは? 教師・地域子供会奉仕、週報や「つながり」のガリ版を担当。後に献身した。TSさんは長年病床の奥さんを支えつつ子育てに励み毎週の説教題を大看板に書き続けた。
 放浪の末伝道所に来たFさんが無慚な自死をとげられた悲しみは今も消えない。
 深川教会宣教54年の歩みの源流には、塩崎荘聖研からのこんな流れが注いでいたのだ。
                   (2009年教会報より)     高倉田鶴子