「看板」

 

 説教題の看板書きを担当してから、私としては相当の回数、文字の練習をしている。相変わらず下手でいっこうに上達しないが、継続は力なりだ。退職したら書道でもやろうかな、と老後の楽しみと出会うきっかけになって、これって老いに向かう私への、神さまのご計画かな?
 ところで、看板を書いていて次週の説教を想像する。「やっぱり!」とか、「そうなるか…」とか思うことがある。いずれの場合にも牧師の説教題はおしゃれ感覚にあふれていると思う。他教会の説教題を目にする機会があるのでなおさらそう思うのかもしれない。でも元来の記憶力の悪さに加齢もあり、説教を聞いていたときのうれしさややる気、納得などは次週礼拝まで残っているのだが、どんな内容の話だったかは断片的で… 
 でもすぐに気をとりなおして「まっ!いいか、今度はしっかり覚えておこう」その繰り返しだ。
 先週の説教題は「<ただの人>の恵み」だった。「人はだれも祝福されたそのままから出発するもの」というメッセージ。担任しているクラスに二人の障害児がいる。一人は病名がついていない。発語なし。歩行は介助者が両脇を力を込めて支え、その子の両足の外側にガード役として自分の足を置き、ロボット歩きが少しできる状態なので椅子に座っていることが多い。クラスの子は障害児と自然に交わっている。だから、親切にする子(興味があって)もいれば、「やだよー、Mちゃん(他のダウン症の子)のとなりは。何でもポイポイ捨てるし、ごはんとっちゃうんだもん」と、同じテーブルでの食事をいやがる。子どもたちの世界は、ありのままの自分をお互いにさらけ出して、衝突しながらも仲良くやって行く。
 ある日いつものように子どもたちが散らばって遊んでいたら、椅子に座っていた障害女児のとなりにあった平均台に、クラスのおとなしい女の子が座り、自分のハンカチをポケットから取り出して、その女児の前に遠慮がちに広げて見せていた。目でハンカチを追う子と、静かにハンカチを広げて見せている子と、あたたかい交わりがなにげなく展開していた。
 子どもたちのそうした新しい関係作りを見る機会を与えられるたびに、老若男女を問わず、豊かな恵みを、神が与え続けておられることを信じて疑わない。
「ただの人」で居つづけることの大事さ、「ただに人」として励んで生きることの両方を備えた者になりたいと思う。
「一体あなたの持っているものでいただかなかったものがあるでしょうか」(コリント1 4:7)               ( K.K.)                                                    (ある日の週報より)