あかし2011-春と夏

                          2011.10.19

                          
 夏― 叔父一家を探して母と仙台へ行く、若林地区から名取市まで広大な仙台平野にがれきと壊れた家、小型船が丘に浮かんでいた。南へ向かう国道をくだり午後、新地町。 相馬の北の海岸に常磐線は無く、風景は以前、下北半島の恐山で見たような昼の死のにおい。450人近くが相馬では亡くなったとのこと。波にのまれた家屋が骸骨のように立つ。 南相馬市に入ったのは午後4時、道の駅には数人。「自衛隊ありがとう」ののぼりもあり。さらに下ると行き止まり、いや、発色燈と機動隊が道路を塞ぐ。 峠の脇道をナビで探すが、阿武隈山系の県道はすべて通行止め。あぜ道から見える光景、田畑の開墾のような作業―わずかに、ひとびと。                                                     北東へ福島に向かうが途中、飯館村は、廃村のように電気がつかず、人気無し。峠越えは車もきつく、川俣町にて明かり、着く。高速に乗れたのは二本松市。愛すべき故郷の半分が低濃度環境被ばく地帯。夏に亡くなった方は妹の義母、Sという方。        西の盆地の中、弾正ケ原、勝常寺という地。ふるく私達の祖先も住み、明治期民権運動と連帯し教会の伝道も盛んだった。ひ孫さん来られるも福島の小学校で学ぶという。  
 春― 四月に亡くなった方は私の祖父の実家のMさん、95歳だった。私が大学生の時、畑からとれた「きうり」を4本呉れた。昭和10年に嫁し75年生きた。式場で偶然双葉町から来られた方に会う。何代か前に福井藩から相馬藩に移住し、榎内というに苗字を受け港湾建築に従事された子孫とのこと。彼女―原発事故の日、父母を探し浜通りの渋滞の国道を走った、東電の役員は自衛隊に守られみんな東京に戻って行った、姉夫婦は津波に家ごとさらわれ未だ捜索もしてもらえていなかった(4月29日時点)、明らかに差別だ、と言っていた。                                  何人かは生きたまま死んだのだと思います。放射能がついているからという、それだけの理由で。                                    まるで関東軍に見捨てられた満州開拓民。国策にやっぱり切り捨てられるんだ、地方の者は。                                      9月先日 福井の原発銀座で唯一孤軍奮闘している小浜市(酒井忠勝の町)の真言宗の住職の、40年近くの活動の話をラジオで聞きました。この国の民のことを最も深く考え、祈っておられました。一番、うれしかったです。      
―この春と夏、郷里にて、葬儀に出て。             ( ある日の週報から Ta.I)