ある日の週報から

2012.4.11

 昨年、10月に三陸山田町の被災したいとこ達を訪ね、盛岡駅に着き、宮古への山田線はまだ午前中一本しかなく、バスで宮古へとなりました。本来であれば山田までいけるところ、宮古以降は津波で線路が流されていて不通でした。
 盛岡はもう秋の気配が感じられ、宮古へのバスに乗り国道106号を三陸へ出発しました。
 宮古まで2時間の旅、山を越え、谷を渡り、早池峰山の北側を走る。区界(くざかい)辺りはもう紅葉が始まり、三陸海岸の太平洋気候と違い、やがて訪れる冬の厳しさが感じられる車窓風景でした。昔、車のない時代には区界を過ぎ、宮古の海岸に近づき開けた明るい海を臨むことは喜びであったろうなあと考えた。 国道の行き先案内板は宮古から浄土ヶ浜となり、ああ、区界は苦界だったのだと思い、三陸海岸は豊かな海を抱え豊かな生活が出来る地区だったのだ、それに引き替え早池峰山の北側地区は、山間のわずかにある平らなところに田がありましたが、極めて少ないように見え、決して豊かな地区とは思えないなどと、思い巡らしながら車窓の景色を観ていました。しかし、震災の被害は見当たりませんでした。
 宮古に着き、国道45号線の海岸を走ると、そこ名が示す「浄土が浜」ではなく、従兄弟二家族の命を、生活を奪った「苦海」でした。
 仮設住宅で暮らす従兄弟二家族、年長者従姉は86歳になりますが、彼女は昭和8年の三陸地震で姉と母親を失い、今回の被災では家族で避難し、助かりましたが何もかも失い、また弟達二人を失い、「おらより若い者が助かってほしかった」と語っていました。
 昨年、3月11日の震災から一年が過ぎました。被災地の生活は一部には再生への歩みが始まりましたが、大部分の方々の生活には変化がありません。うちしがれ、先の見通しもなく、高齢者(60代以上の)は仮設住宅での生活で自分の生涯を終えるであろうと、語っていました。何も出来ない私が残されるのはいたしかたないですが、被災した方々がそのままに残されることはゆるされない。

                                                    (Y.K.)