ある日の週報から

                            2012.5.23

 3月11日、東日本大地震があり多くの人が亡くなり、津波に田畑や町が一瞬に破壊された。多くの人がその出来事に自分だけでは抱えきれない不安やとまどいを、絆によってすこしでも力と希望を願ったのであろう。絆は今まで以上に強いつながりが必要になった。
 一年たっても復興は思うようには進んでいない。あまりにも広い範囲で、瓦礫がかたずくのも時間がかかるであろう。福島の放射能の瓦礫や土はやっかいだ。ゴミの処分を受け入れてくれる所がなかなかない。絆の力が助けになればと思うのだが、受け入れを拒否する人達を責める事はできない。役人は放射線量に対して人体にすぐには影響がないという、では数年後には影響があるのだろうか、という不安が残るからだ。
 自然の調和を破った放射能との闘いは後の世代に大きな犠牲や負担を強いることになる。より良い暮らしを目指し、欲望を膨らませてきた私達一人一人に責任がある。
 絆は人と人のつながり、近所の方、家族、友人、兄弟があり少しずつのつながりが絆になっていく。  
 孤独死とか孤立死という悲しい事件がある、この方達のまわりには絆がなかったのだろうか、亡くなられた方達にも事情がある、近所付き合いが薄かったり、家庭の中は干渉されたくないという本人の強い思いから民生委員の介入を拒否したり…心の絆の結びつきがむずかしい。    
 私の住む所でも老人が多く、これからは人ごとはない問題がおこるかも知れない。実際、人が亡くなっても町会に知らせず密葬がふえている。絆を作るために、少しの私達の努力が必要だとおもう。
 先日、友人と地下鉄のホーム行った時幼稚園の女児が座りこんで大声でないていた。側にはお母さんが困った顔で見下ろしていた、友人はすぐ女児の側に行き腰をかがめて話しかけた。
「どうしたの」女児は見知らぬ人の声に少しとまどいながら「手がいたいの」「どこの手がいたいの」「ここがいたいの」友人は女児の指を触りながら「いたいの、いたいの、とんでいけ、ほらいたいのとんでいったよ」女児は泣き止んで、立ってお母さんと手をつないだ。      
 友人の自然な行動がステキだなとおもった。ごく小さなふれ合いだが、日常生活の中では絆につながる必要な勇気だろう。時にはおせっかいなおばさんになってしまう時もあるが、私なりに神さまから与えられた持ち場と思い、ごく自然に豊かな心で喜びをもって接した時、小さな絆が強い絆になりますように祈りたい.         

                        (S T)