<あかし>                        
   1900年生まれの母は、幼少時を九州、久留米で育ち、祖母や伯母に伴われて、教会に通っていました。婦人たちは白布を被り年長の従兄(甥)は神父さんの手伝いをしていましたので、古い基督教地帯です。女学校卒業間もなく瀬戸内海、水島の古河精錬所社宅で新所帯を持ち、私たち三兄弟が生まれました。子守歌は讃美歌で、「幻の影を追いて浮き世にさまよい」など。わたしは聞き覚えの片言で歌っていました。
  昭和3年、精錬所は閉鎖となり、一家は、備後(広島県)府中の隣村(父の故郷)へ引き揚げました。父は漁網会社に赴任しました。
 一里の道を徒歩で往復できるようになった小学5年生のわたしは、クリスマスの夜、近隣に住む信者婦人に伴われて、町の教会に赴き、聖誕の歌や劇を視聴しました。それは初めての教会で、その後、誘われて礼拝に出席を始めました。
 昭和10年、入学した町の中学校は、教会と近接していました。母はわたしが教会に通い始めて大変喜びました。中学4年5年は受験準備で遠退きましたが、 牧師さんへの訪問は続けていました。
 昭和15年に入学した旧専では、グリークラブに入り、クラブの先輩にお誘われて長田教会に出席し、聖歌隊を手伝っていました。昭和16年秋頃より、世情困難となり、教会は止め、やがて12月には開戦になりました。
 昭和17年、3年生の1学期に受験した陸軍、海軍の試験は共に落第しました。徴兵検査あり、甲種合格9月繰り上げ卒業、。10月に広島で現役入営。4か月の教育訓練後、幹部候補生の試験を受けましたが、これも不合格。(士官や下士官になれない)教練の内申が兵適だったのでしょう。
 昭和18年3月、不合格者のもっとも末尾の数名の中に、私は入り、一年上の兵士に混ぜられて戦線へ送られることになりました。支給された軍袋から南方方面と判ぜられました。追及兵の集合した練兵場から宇品港までの移動は極秘のはずなのに、家族が多数付き添って、歩いていました。
 母と末弟は公用外出兵に依頼した頼りを受けて、馳せ付けて来ましたので、面会できました。

 平成元年、他界した母の一年祭に出した遺稿歌集に、次の歌がありました。

    あい見れば言葉もなくて佇ずめり思い乱れてただ涙かむ

    心定め見納めかと吾子の顔しみじみ見れば涙にかすむ

    この世にて聞く事叶わぬ声なれば耳の底に留めておかむ

    悲しみに心も固く立ち尽くせば片笑くぼして吾子は見守る

    親と子がちぎりし命この一期断ち切ることは神とて叶わじ
    神とてもこの親と子の絆をば切らせ給わじとひたに祈る

    吹雪する港を発ちて南のはろけき海に行きし吾子かも

    国の為とは云いながら朝夕に慈しみ育てし宝なりしに

 私は集団の中に呑まれて悲壮な意識などは持てませんでした。やがて沖に泊まる輸送船に艀で運ばれる頃には「すごいことになった、これが故国の見納めか」と嘆いていました。また、異国が見られるという期待もしました。しかし、輸送船の行く手に待ち受けていたものは、瘴癘の地ニューギニア、戦火と飢餓と熱病と暴力と死でした。終戦までの2年半は唯々自己の命を保つことのみに専念し、誉れも勲も自覚も失っていました。さらに学校や教会で過ごした時間・聖書の学び・救世主や預言者の言葉は、総て私の心身から抜け去っていました。
 敗戦後、、10か月の抑留中に広島原爆の噂を聞きました。

                                (K.M.)