《聖書の言葉から》

 

       「おはかはからっぽです」

         マタイによる福音書281節~10

 

 今まで、いくつものお葬式に出てきました。死んでしまったら、もう会うことができない。おとなで、この悲しみを味わったことのない人はいないでしょう。悲しくて寂しくて、どうすることもできない痛み。

 

 イエスさまのまわりにいた人たちもそうでした。いつも一緒にいて、信頼し切っていた主イエスさまが十字架で死んでしまった。「神さまの国は近づいた」「神さまがあなたのことを心配しているよ、神さまの方を向こう」「自分が大事なように、他の人も皆、神さまの大事な人だよ」と教えてくれたイエスさま。病気の人や、悲しんでいる人や、皆から仲間外れにされている人のところにいって、「大丈夫だよ、神さまがいっしょだよ」と力づけてくれたイエスさま。そのイエスさまが十字架につけられて死んでしまった。もうどうしたらよいかわからない。

 

 金曜日に十字架につけられて死んで、お墓にお納めして。そして日曜日の朝になりました。同じ名前の2人のマリアがイエスさまのお墓に行きました。大好きなイエスさまのそばにいたい、良い香りの油をおからだに塗ってあげたい。そう思ってお墓にいきました。けれど、マリアたちが行くと、お墓を塞いでいた大きな重たい石が転がっていて、そこに神さまのお使いがいたのです。

 えーっ、そんなことあるわけないよ。そうですよね。だから、マリアたちも驚いて、こわくてきっとガタガタ震えていたと思います。お墓の前には見張りの兵隊がいましたが、この人たちは恐くて、死んだように動かなくなったと書いてあります。気絶してしまったのでしょう。

 

 怖がっているマリアたちに、天の使いはこう言いました。「恐れることはない」。恐ろしいに決まっています。だけど、そんなあるはずのないことがあったとしても、「『あなたたちは』恐れるな」と言われます。兵隊たちは恐ろしくて気絶しているかもしれない。でも、神さまを信じているあなたたちは、恐れることはない。まさにあなたたちのために、イエスさまはお墓から起き上がられたのだ、「あの方は、ここにはおられない」。

イエスさまは「復活なさった」のです。

 イエスさまは確かに死にました。そしてお墓に入れられました。だけど、イエスさまがそのまま、死んだまま、お墓にいるまま、ということはなかったのです。お墓は空っぽです。

 

復活のイエスさまは、マリアたちの前に立ってくださいました。そして、こうおっしゃいました。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。いつもいたところ、日常の場所で、今までのように神さまの言葉を聴きなさい。そして、神さまに従って生きていきなさい、とおっしゃったのです。「わたしの兄弟たちに」と言って。兄弟たちというのは、いつも一緒にいた弟子たちのことです。この弟子たちはイエスさまが十字架にかかったときに、「自分も十字架につけられて殺されるかもしれない」と思って、逃げてしまった人たちです。一番大事なときに、一番そばにいてほしいときに、裏切って去って行った人たちを、イエスさまは「わたしの兄弟たち」と言ってくれたのです。私たちがどんなにだめで、気がついたら自分のことばかり考えていて、神さまのことも他の人のことも大事にしていなくても、その私たちをイエスさまは「わたしの大事な人」と呼びかけてくださいます。

 

 

悲しいきもちでお墓に行ったマリアたちは、喜びを伝える人になりました。復活という言葉は「立ち上がる」とか「起き上がる」という意味があります。悲しんでいた人たちが喜んで、力をなくしていた人たちが力をもらって、こわがっていた人たちが自分の役割に立ち上がって行く。これがイエスさまの復活です。2000年経った今も、イエスさまの復活を信じる人たちは次々に起こされます。復活のイエスさまがいっしょにいてくださって、イエスさまがわたしのことをいきいきと生かしてくださっているのだと信じる人たちが今も出ているのです。