《聖書の言葉から》

 

「もう一度漕ぎ出そう」

              (ヨハネによる福音書211節~14節)

 

イースターの後のことです。弟子たちはガリラヤに戻っています。ペトロが言いました。「わたしは漁に行く」。なんというか、「漁にでも出るか」という感じです。「それじゃ、俺たちも行くか」。イエスさまが一緒にいなくなって、彼らは何をしてよいかわからないのです。イエスさまは復活された。復活の主に出会った。でも、どうしてよいかわからない。ガリラヤに戻ったはいいが、なんとなく身をもてあましている。この弟子たちの姿は、私たちの姿であるかもしれません。イエスさまに出会っている、信じている。だけど、何をしたら神さまに仕えることになるのか、平和が来るのか、わからない。

 

彼らは漁に出ます。出るには出ましたが、何も捕れません。夜の漁です。暗さと空しさと、彼らに残っているのは疲れだけです。ああ、舟を出してはみたけれど、徒労だったな。

 

夜が明けてきました。うっすらと明るくなっていくその岸辺に、誰かが立っています。誰だかはわかりません。その人は言います。「子たちよ、何か食べ物があるか」。いちばん言われたくないひと言です。憮然としたでしょうね。「ありません」、捕れなかったんだから。さっさと舟を岸に寄せて帰ろう。そう思ったことでしょう。

 

それなのに、その人はまたこう言うのです。「舟の右側に網を打ちなさい」。冗談じゃない。何十年漁師をやってると思ってるんだ。でも、言われた通り彼らは網を打ちました。「そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」。大漁です。このとき初めて、弟子の一人が気づきます。「主だ」。

 

イエスさまが来られると、世界が変わります。世界が変わるだけではない、私たち自身が変わります。

 

徒労、挫折、空回り。何をしてよいやら、それすらわからない。神さまにさえ反論します。もうやってみたんだよ。ああ、誰も助けてはくれない、ひとりきりだ。その時、イエスさまはそばに立っています。徒労の夜に、私たちはまた主イエスと出会います。イエスさまは停滞なさいません。十字架にかかり、一度は死に、葬られた主は、そのままお墓にはいませんでした。復活なさって私たちにおっしゃるのです、「もう一度漕ぎ出せ」。

 

大漁でした。「網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」。たくさんのさまざまな種類の魚たち。イエスさまのお声かけでいっぱいになった魚たち。それは教会の姿です。多種多様な、それぞれに違う背景を持ち、違うようにつくられた者たちが、一つの教会をかたちづくる。そしてその網は破れないのです。

 

陸に上がると、食事の準備はすでにできています。それに加えて「今とってきた魚を何匹か持って来なさい」と言われます。イエスさまが先に働いてくださっている。この働きの上に、あなたたちの働きを重ねなさい、とおっしゃいます。イエスさまのお働きはすでに十分なはずです。それなのに、イエスさまは私たちの働きを待っていてくださいます。

 

弟子たちはもうだれも「あなたはどなたですか」と問いません。イエスさまがいる食卓。大きな声で騒いだり大笑いしたりとは違う、静かな、けれど誰もが満たされる温かさ。誰も何も言わなくても、ここには主イエスと共にある豊かな恵みが満ちています。

 

 

この恵みの上に私たちの働きの実りを加えていただきましょう。それぞれ違う私たち。違いは神さまの創造の豊かさです。その豊かさをもって私たちは新しく漕ぎだします。